彌生の道に     


    昭和十七年第五十二回紀念祭寮歌 
      歌:詠歸會(東大OB寮歌の会)

(序) 彌生の道に風寒く     公孫樹の枯葉(かれは)音もなく
   散りしくあたり(しぬ)びかの  春の跫音(あのと)よ近きかな」
    (あめ)(くら)きにそそり立つ    (あらわ)の梢仰ぐとき
   あゝ三年(みつとせ)向陵(ふるさと)も     やがて去るべきわが身なり」
   季節(とき)の流れのいまさらに  迅き三年(みとせ)よ、わが城郭(しろ)
   こゝろ倚りゆく欄干(おばしま)に   ああ追憶(おもひで)の盡きぬかな」
(謳)寂しきときは(はね)とりて   神もうたふのならひなり 
   ああ(きは)みなの空のもと   呼ばなむ、友よ、若人よ」
   せめて今宵は君とわが   首途(かどで)を祝ふ玉杯(たまうき)に 
   返らぬ日日を(うた)はなむ   生命の限り謳はなむ」
   袂をわかつ高層(たかどの)の     去らぬ名殘に謳はなむ 
   さらば三年(みとせ)(をか)の日よ!  さらば(をさな)き夢の日よ!

   

 この寮歌の解説は、こちらをクリックして下さい。この寮歌は、300曲以上ある一高寮歌の中でも、最も長い歌詞の寮歌であると云われてい
ます。下の写真は、この寮歌が作曲された昭和17年頃の彌生道である。銀杏の木は、現在と比べ、それほど大きくなく道幅も広く見えます。
 昭和10年9月、一高は本郷向ヶ岡彌生町から駒場に移転した。この時、駒場の地は本郷と同じく「向陵」(向ヶ岡の漢語的表現)と命名された。
翌年2月1日の第46回紀念祭の時に、一高構内を東西に貫く銀杏並木は、これも本郷彌生町(彌生が岡)に因み、「彌生道」と命名された。
 この彌生道は、寮生の絶好の逍遥の道として、また思索の道として寮生に親しまれた。駒場寮がなくなった今、銀杏の梢から漏れくる星屑に
黙示を得ようと逍遥する学生の姿もなくなって、いつしか「彌生道」という名前すら忘れ去られてしまった。遙かなり一高! 淋しい限りである。