BGMは、一高最後の紀念祭寮歌「日のしづく」

最後の紀念祭寮歌「日のしづく」

                                           矢部 徹先輩(昭和24年理甲)

*一高同窓会および矢部 徹先輩のご好意により「向陵」終刊号から転載する。矢部先輩には、「日のしづく」
DTM作成から、歌い方まで懇切丁寧にご指導をいただいた。ここに改めて深甚なる謝意を表するものである。

 

 一高最後の紀念祭寮歌「日のしづく」の作詞者は、級友後藤昌次郎である。昭和20年・23年・24年の第56回・第59回、そして第60回紀念祭寮歌には曲が無い。これらの寮歌は一度も歌われることなく、一高は廃校になってしまった。
 何時の頃かも忘れるほどの時が経ってしまったが、あるクラスコンパの席で、昭和21年の理科首席合格者の瀧 巌から「折角の後藤の寮歌に是非理甲一組で曲を作ろう。矢部やれよ。」と発破を掛けられたことがあった。瀧は音楽の趣味のある者ならやれるだろうとでも、好意的に言ってくれたのだろう。その場では「いやとてもとても」と応ずるしかなかったが、内心何時かやってみようと気にとめるようになった。そのままに何年かが経つうちに、たまたまある先輩が楽譜のない寮歌の全てに作曲をして、『向陵』に発表されたことを知った。当然後藤の寮歌にも曲がつけられてあり、言わば先を越された思いで、「日のしづく」の譜面の頁だけを 寮歌集に挟んで保存しておいた。そしてあの瀧の発破への執着もいつか薄れていった。
 『向陵』が終刊を迎える今となって、後藤昌次郎に曲を贈る最後の機会を逃すまいという思いに駆られた。そこですでに作曲を発表されている先輩のご了解を頂くため、楽譜が掲載されていた『向陵』に心当たりがないかを、級友の兼重一郎に尋ねてみた。寮歌に謳われる、”友情”の権化のような兼重は、該当する『向陵』を探しだし、コピーを送ってくれて次のような経緯を教えてくれた。
 
 渡辺 孚氏(昭和11年理乙)が、四百近い寮歌の中の2/3以上にも及ぶ、歌われざる寮歌を音に残すことを提唱され、寮歌集にある全曲の寮歌を、ピアノ演奏で録音することを思い立たれた。その手始めに楽譜のない17の寮歌に曲を作られ、『向陵』第31巻1号(平成元年4月)に発表された。全曲が録音されたカセットテープ全15巻は、氏が亡くなる半月程前の翌年の5月に、思いを共にされた常泉浩一氏(昭和14年理乙)に預けられた。常泉氏がダビングされた一組が同窓会に寄贈されてある(『向陵』第32巻2号) 渡辺氏は喉頭癌で他界されたが、医師である氏が、余命幾許もないことをご承知であったことは言うまでもない。その上での労作であったことを思うと、深い胸の痛みを禁じ得ない。
 
 後藤の了解を得る前に、一両日あって彼から電話があった。自分の作詞した寮歌が、曲もなく歌われることもなく、一高の歴史と共に消えていくのを寂しく思っていたので、兼重からの電話で知った時は、とても有り難く嬉しかったと喜んでくれた。『砂山』のように、同じ歌詞に二つの曲がある歌は、世間にもあるのだから、先輩が発表した曲があっても、是非やってくれと彼から尻を叩かれた。兼重からも是非『向陵』に寄稿を頼むというエールが届いた。すでに常泉氏もこの世を去られてしまった。泉下の両先輩のご冥福を祈り、最後の紀念祭寮歌「日のしづく」を作曲して、終刊号に投稿することにした。

 因みに鈴木皇氏(昭和19年理甲)は、昨年(平成15年)10月発行の『向陵』第45巻2号の誌上に、氏が選ばれた比較的に良く歌われた紀念祭寮歌60曲を、作詞者・作曲者と共々に列挙されている。その最後に「日のしづくしづくのごとに」が挙げられてある。寮歌集の記載のまま作曲者の名はない。作詞者の後藤自身も、一高玉杯会の世話人でもある兼重も、「日のしづく」に作曲がされたことがあったことは、どうも知らなかったようだ。もしこの寮歌を歌われている同窓の方がおられるのであれば、私の意のあるところをご理解頂きたいと願うばかりである。
 
 周知の同窓生も多いと思うが、後藤は戦後に文甲を中退して理甲に入り直したのであり、一高入学は昭和18年である。理科から文転するのが戦後の一般であったのに、正直のところ彼が何故理科を選び直したのか理解し難かった。一高卒業後の50年を記念した文集『ひたぶるに求めてしもの』に、次のような彼の告白が述べられてある。「文科を中退したのは、戦争中生死の大事を解く鍵が哲学の中にあるに違いないと思っていたが、それは見当違いで、もっともらしい哲学体系が敗戦の現実の前に壮大なガラクタのように崩壊するのを目のあたりにしたと思ったからである。現実の検証に堪えない学問は学問に値しないと思い、文科をやめて理科に入り直した」とある。わざわざこんな引用をしたのも、若き日の後藤昌次郎の一端を知ることが、彼の作詞による寮歌の理解に役立つと考えたからである。余計なことだが、彼は自分の理科系の天賦の才能に見切りを付け、大学は法科に進んだのだという。彼の弁護士としての活動ついては、今更蛇足を加えるまでもなかろう。

 「日のしづく」に明らかなように、一高在学中の彼の哲学的・文学的素養の深さは、私のような凡庸な理科の生徒の遠く及ばぬところである。あらためて全文を掲げる。

               丘の最後の紀念祭に
                 夜の歌
           日のしづくしづくのごとに    たまゆらのいのちかなしみ
           たどり来てふりさけみれば   ふかき夜のよどみのそこひ
           くろぐろと空をかぎりて     ふるさとの塔はそびえぬ

           星々はみだれとびかひ     まがつ気のただよふまゝに
           ひとのよはゆくへしらぬを   さだめなる光こがれつ
           橄欖のみづの葉かげに    旅の子は空を仰ぎぬ

           あめはるかしろがねのかは  たへの音にながれめぐりて
           あたらしき星や生れたる    あらゝぎをめぐりてもゆる
           あかあかきほのほのかなた  いつかしき星のまたゝき

           あゝ北斗
           光あれうましふるさと      いざさらば向ヶ丘よ

 彼には直接次のような点を聞き質した。
 初めの「丘の最後の紀念祭に  夜の歌」の二行のような表現の仕方は、他の寮歌には見られないものである。これは単なる副題ではなく、レチタティーヴォのように、後藤の心はここから歌い出しているのだと感じた。「夜の歌」の真意は那辺にあるのだろうか。そして万感の想いが込められたように結ばれている、「あゝ北斗」という内容について知りたかった。彼は懇切な解説を書き送ってきてくれた。
 それによると、以前ある評論の中で、結びの部分から「あゝ北斗」を除外して、「いざさらば向ヶ丘よ」の部分だけが取り上げられ、どの寮歌の結びとしても不思議のない、月並みな言葉で結ばれていると批評されたことがあったという。その限りでは後藤も詩作中に同様に思っていたので、詩想全体を凝集して的確に締め括る言葉を探し求め、苦心して探り当てたのが「あゝ北斗」の一句であった。その間いろいろと助言をしてくれた田中隆尚氏(昭和19年文乙)も、この一句に「これでいい。体をなした。」と喜ばれたそうだ。彼は前記の評者が、何故この部分を省いて批評されたのか分からないが、私がこの結びの扱いについて、いろいろと問い合わせたことを、わが意を得たように喜んでくれた。以下は寮歌「日のしづく」の精髄にふれる内容であり、後藤が書いてきてくれたそのままの文章を引用させていただく。

 北斗とはもともと北斗七星のことで、北極星のことではない。私は詩のリズムと語の歯切れの良さから、北極星の意味で北斗と書いた。「あゝ北極星」ではしまりがない思ったからである。
 宮沢賢治は「星めぐりの歌」の中で、北極星のことを「星のめぐりのめあて」と歌ったが、精密にいうと方角が少し狂っているそうだ。私はイメージの中で、私たちがふだん北極星と呼んでいる星ではなく、正真正銘「星のめぐりのめあて」となるべき星を求めた。
 カントは『実践理性批判』の結論で、「考えれば考えるほど、いつも新たな、いよいよ強い感嘆と畏敬の念とで心を満たすものが二つある。私の上なる星空と私の内なる道徳律である」といったが、カントの「私の上なる星空」は、今や秩序を喪失して変貌したのではあるまいか。「星々はみだれとびかひ  まがつ気のただよふままに」なっているのではあるまいか。しかし、新しい星の生れる気配がする。「あめはるかしろがねのかは   たへの音にながれめぐりて   あたらしき星や生れたる   あららぎをめぐりてもゆる   あかあかきほのほのかなた   いつかしき星のまたゝき」。
 これに続く結びの冒頭に、「あゝ北斗」と歌ったのである。
 なぜ「夜の歌」か、ということも引用からお分かり頂けると思う。寮歌の生れた状況について少しばかり付け加えさせて頂くと、時代は昼でなく夜であった。向陵の運命も夜であった。篝火をめぐって歌う紀念祭の宴も夜であった。私のイメージの中に、昭和18年文甲二組でめぐり会った友、宮地 裕の第58回紀念祭寮歌の調べがあった。 
          「さらば舞へこの夜一夜(ひとよ)を   ()むら立ち火の子躍れり
           あかあかと頬にかヾよふ    ひとすじのいのちたゝへむ・・・・・・」


 以上が後藤自らによる解説である。知る人ぞ知る草笛の名手である彼は、作詞内容からは当然ながら「僕の寮歌は短調で歌いたい」と、電話の向こうで呟いていた。ト短調の曲に仕上がって、彼の思いの一端は叶えることができた。彼をはじめ兼重一郎や瀧 巌ら級友の友情によって、最後の紀念祭寮歌「日のしづく」への私の念いを、『向陵』の終刊号に寄稿できたことを心から感謝したい。

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