BGMは、一高寮歌「嗚呼玉杯」、最初に明治37年初版寮歌集の譜で1番を演奏ます。次いで現在の譜で演奏しますのでお聞き比べ下さい。


「嗚呼玉杯」考 

 「嗚呼玉杯」が特別の地位を占めるようになったのは何時頃のことか、一高寮歌に関心を持つものなら誰しも知りたいところだろう。大著作「一高應援團史」の著者奥田教久大先輩(昭和13年理甲)が1994年10月刊「向陵」に発表された「『嗚呼玉杯』考」を大先輩の許可を得て転載します。大先輩のご好意に深甚なる感謝の意を表します。 

  昭和十年の第一学期全寮晩餐会だったと思う。「一年生出て来い!」の声に押されてやおら登壇した年配の一年生S君は、見よう見まねで何かしゃべった後、「これから『玉杯』を歌おう。みんな一緒に歌ってくれ」と叫んだ。一瞬、ざわめきが止み、すぐさま野次が飛んだ。「『玉杯』は最後だ。途中で歌う奴があるか」「そうだっ、引っ込め」。S君は立ち往生し、習い覚えたばかりの別の寮歌でお茶を濁して壇を降りた。
 「玉杯」は当時すでに神聖な寮歌であり、茶話会や晩餐会の最後にしめくくりの歌として荘重に歌われるのが習わしとなっていた。また、対校戦では応援団が入退場にあたって校歌または凱歌のように高唱するのが常であった。
 「玉杯」は周知のように明治三十五年、東寮寮歌として作られた。しかし、それが一高の代表的寮歌となり、儀式用となり、神聖視されるまでになったのは、かなり後のことである。
 では、いつ頃からそうなったのか?本稿は『校友会雑誌』や『寄宿寮記録(日誌)』などの記事を調べて、それを推理しようとするものである。結論を先に言えば、「玉杯」は誕生後ほぼ五年間はほとんど注目されなかったが、明治四十年代になってようやく駒場・帝大両運動会などで「凱歌」として歌われるようになった。大正初期になると全寮寮歌(「闇の中なる」)、野球部部歌(「天地の正気」)・同凱歌(「古都千年」)や端艇部部歌(「花は桜木」)、陸上運動部部歌(「柏の旗」)、「としはや已に」などとならんで代表的愛唱歌の一つとなり、大正十年ごろから全寮茶話会や全寮晩餐会の最後に歌われる締めくくりの歌としてその地位が定着したものと思われる。

                     「花は桜木、人は武士」の二十年
 明治二十三年三月、自治寮が発足した当時は、寮生が共に歌う歌はなく、わずかに軍歌などが歌われていた。ところが、同年四月十三日、隅田川で第四回対高商ボートレースが行われ、応援歌の必要が痛感された。寮委員長格だった赤沼金三郎が一夜で書き上げ、コンニャク版で刷り、東寮の三階で一夜漬けの練習をし、翌日これを歌いながら大挙墨堤にくりだした。それが「花は桜木、人は武士」であった。
 この歌は、ボート歌、凱歌、後には端艇部部歌と呼ばれ、実に二十年余にわたって、後年の玉杯のような締めくくりの歌としての栄誉を担った。曲は恐らく戊辰戦争のころからあった古い軍歌の借り物と思われ、実に単純で、一節ごとに「デンコ、デンコ」の合いの手が入る。歌詞も通俗的で、格調など全くなかった。いわば素朴な俗謡であった。しかし、それだけにだれでも気安くすぐに歌え、寮生の唯一共通の愛唱歌として親しまれたものであろう。

                     淡雪のように消えた「雪ふらばふれ」
 「花は桜木」のボート歌だけしかないのはまずいと、だれしも考えていたのに違いない。明治二十五年、寮委員は一高講師で歌人、文学者としてすでに令名のあった落合直文に寄宿寮歌の作詞を依頼した。落合先生は早速引き受けて「雪ふらばふれ、霜おかばおけ、下に春待つ心には、何かいとはむ雪と霜」といった雅文調の寮歌を作ってくれた。曲は、「月と花とは昔より」の譜とあり、当時一般に歌われていた民謡から借りて来たものらしい。この寮歌第一号は三月一日の紀念祭で披露されたが、元気一杯の生徒たちにとっては全く魅力が感じられなかった。
 寮委員は何とかして歌ってもらおうと宣伝にこれ努め、翌二十六年二月には第一回音楽部演奏大会で鈴木講師による新譜が発表されたが、これまた不発に終わった。かくて、この歌は数年を出ずして、淡雪のように消え、完全に忘れ去られた。いまでは曲譜さえ残っていない。
 明治二十八年になると、日清戦争でできた軍歌に刺激され、その曲譜を借りた寮歌が登場し始めたが、まだ寮生の心をつかむまでには至らず、依然として「花は桜木」の独壇場であった。

                    ”真の寮歌出でよ”の大檄文
 ところが、明治三十三年一月発行の『校友会雑誌』九十三号に匿名子による「寮歌」と題する一大檄文が掲載された。詳細は『自治寮六十年史』四十五ページを見ていただきたい。要するに「真の寮歌出でよ」という、次のような論旨であった。
 「一体、一高には寮歌なるものありや。”花は桜木”は単なるボートレース歌なり。もとより咄嗟の作、措辞蕪雑、用字卑俗、その調べまた単調、一の活気なく、一の荘厳なるなし。人あるいは言わん。『寮歌は雪ふらばふれ』なりと。されど哀しいかな、寮友の多くはこれを寮歌として認めざるなり。その歌詞優美なりといえども、雄渾を欠き、その曲緩かつ悠にして荘厳を欠けばなり。我はわが校友に勤倹尚武の実をあげ、文に武に天下学生の覇たるべき英風を鼓吹すべき校歌を望みてやまず。さらに我はわが寮生に自治の実をあげ、社会の濁流に抗して向陵に割拠すべき士を激励するの寮歌を求めてやまざるなり」
 こうして、三十四年には「全寮寮歌」、「春爛漫」、「アムー川」、三十五年には「嗚呼玉杯」、「混濁の浪」などの歌詞、歌曲ともに充実し、後年愛唱歌となった寮歌が続々と誕生した。

                      凱歌と呼ばれた「玉杯」
 「玉杯」は当初、ニ長調であった。とくに「向ヶ丘にそそり立つ」のくだりが現行の「玉杯」と大きく違っている。つまり、最初の玉杯は勇壮活発、軽快な行進曲風であった。そして大正初期までは凱歌または凱旋歌と呼ばれ、とくに帝大・駒場の両運動会にはなくてはならない歌となっていた。長調から短調に変ったのは恐らく大正初期以降と思われる。
 もっとも、「玉杯」も登場当初にはひどい評価もあったようだ。例えば、明治三十五年四月発行の『校友会雑誌』一一六号には匿名子によるこんな批評が出ている。
 「東寮寮歌(「玉杯」)は新寮歌中の白眉たり。惜しむらくはただ字句の流麗華美に全力を尽くして高大の気魄に至ってはこれを得るに由なきを。すなわち、文飾に過ぎて質実なく、優弱にすぎて剛直なく、ある人の評して婚姻の歌と言えるにかなえるを」
 さて、明治三十五年から昭和四年に至る、主として全寮茶話会や晩餐会などの寮歌合唱の記録を別表として掲げた「寮歌合唱」とだけあって内容不明のものは、原則として省いた。これらの表から、冒頭に述べた結論が引き出せるかどうか、読者諸賢の判断に委ねたい。


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